3月。新入社員を迎えるこの季節になると、いつも決まって思い出す出来事があります。もう25年以上前、私が大学2年生の時でした。
ある日のこと、急に、所属している学生団体の上級生から、1、2年生に召集がかかりました。同じ団体出身の卒業生であるK先輩という方が帰郷されていて、後輩に特別に話をしたいという意向だというのです。「すごく厳しい人だから、覚悟して来いよ。」連絡してきた上級生の緊張した声に、これはただごとではないということが察せられました。
団体というのは、「国際経済商学学生協会(Association Internationale des Etudiants en Sciences Economiques et
Commerciales=通称アイセック)」。実業界との連携をとって、海外企業へのインターンシップを行ったり、自主的な会議運営の経験を積む事によって学生時代から国際感覚を養うことを主な目的とした世界約100カ国に支部のある学生組織です。
http://www.aiesec.jp/about/index.html
その当時、長崎大学にも支部があり、20名くらいの経済学部生が所属して、活動していました。
初めてお目にかかるK先輩は、長崎大学経済学部を卒業後、大手メーカーに就職されていました。入社の時に行なわれる試験での順位は、300名の同期中、ほぼ最下位。そこでK先輩は奮起し、3年間、睡眠時間を3時間に削って帰宅後と出社前の早朝、徹底的に英語を勉強されたというのです。
3年後には、社内試験での順位は同期入社の3位に入るまでになり、東南アジアの新工場建設の若きリーダーとして抜擢されたということで、K先輩の自信に満ちた口調から、その会社の期待を一身に担って活躍をされているのだということが如実に感じ取れました。
K先輩は、本当に通じる英語を身につけさせるために、そうしたご自身の経験から編み出されたいくつかのトレーニング方法を私達に教えようと、忙しい仕事の合間を縫ってわざわざ学校へ足を運ばれたという事でした。
中でも印象に残っているのは、英語の発声訓練です。
40名くらい入る教室の一番後ろに、カセットレコーダーを壁のほうに向けてセットします。そして発声する人は、教室の一番前、黒板ぎりぎりのところに立ち、黒板に向かって(つまりレコーダーには背を向けて)、与えられた英語の教材を読み上げます。
こうして録音したものを聞いてみると、普通に発声したのでは、何と言っているか聞き取れない状態です。黒板の方に向かって出した声は教室の後の、それも反対側を向けてあるレコーダーには、ほとんど届かないのです。
時折、K先輩からの厳しい注意が飛んできます。
何度もやりなおして、録音が「英語」として聞き取れるようになるには、腹筋を使い、抑揚をこれまでにつけたことのないように力強くつけ、はっきりと発音し続けなくてはいけないことが体でわかってきます。ただ大きな声を出せばいいというのではない、ただ英語らしく口先で発音すればいいというのではない、全身を英語バージョンに切り替えなくてはいけないくらいのこのトレーニングは本当に刺激的でした。
そうした緊張した数時間を過ごしたあと、K先輩は私達に次のような話を始められました。
「われわれの人生というものは、いわば『後ろ歩き』をしているようなものだ」
そう言われても、最初は先輩が何をおっしゃっているのかピンと来ませんでした。
「後ろ歩き」?・・・そういえば、小学生の頃、校庭や体育館でふざけて後ろ歩きで競争したりして遊んだ事があったっけ・・後ろが見えないので危ないし、思うような方向には進めない。慣れていなくて振り向き振り向きやっていると足がもつれて、すぐにころんでしまって・・・
私達がけげんそうな顔をしていたからでしょう。K先輩はさらに身振りを交えて説明されました。
「後ろ歩き。みんなが、後ろ歩きしているんだ。先にスタートした人は、あとでスタートした人が後ろ歩きしながらこっちへ進んでくる姿が見える。だから、『おい、すぐ後ろに大きい石があるぞ、つまずくな!』とか『もう少し来たら地面に穴が開いてるから、右に寄ったほうがいいぞ!』とか言ってあげることができる。次の瞬間、自分自身は後ろにあるぬかるみに足をとられてころんでしまうかも知れないけれどね」と言ってふと微笑まれたその目に、いいようのない深い優しさが宿っているような気がしました。
奥様の影響で般若心経を暗記された話なども聞かせてくださって、私は随分と後になって、K先輩は英語のトレーニング方法もさることながら、こうした「人生訓」を後輩に伝えるために学校にいらしたのではないかと思うようになりました。
社会に出て、年齢を重ねていくと、自分より後に職場に入ってきた人や若い人に対して「こんな私が何か教えられる事があるだろうか」とか、「今は時代が違うから」と距離をおいてしまうことがあるのではないでしょうか。
でもそんな時、私はこのK先輩がおっしゃっていた「人生は『後ろ歩き』のようなもの」という言葉を思い出し、自分にこう言い聞かせています。
私の歩んできた道は取るに足らなくて、これからも試行錯誤するばかりかもしれないけれど、それでも少しだけ先に人生をスタートした者として、気づいたことは伝えよう、転びそうになっている人には手を差し伸べよう、そして一緒に歩んでいく人たちの幸せを祈っていよう・・と。