まず、右の写真を3秒だけご覧になってください。
その短い間に、皆さんの心の中には、何が浮かんできたでしょうか。
「薔薇の花だ」という気づき。活けようとしてトゲで手を刺してしまった経験。女学生時代に独逸語で覚えた「野ばら」のメロディー・・・
たった一枚の写真でも、見る人によって浮かんでくることはさまざまです。では、その違いはいったい、どこから生じて来るのでしょう。
「心が満たされる」とか「心の深いところに残った」というように、私たちは「こころ」を器のように容積を持つものととらえています。流れるように過ぎてゆく時間の中で、人間が命として存在することになってから五感で接した全てのものは一つ残らず「こころ」という器に注がれ、醸成されてその人を作り上げていくのではないかと思えます。
同じ薔薇の写真をわずか3秒眺めただけで、それぞれの想起するものが違っているというのは、誰ひとりとして、同じこころの器を持つ人はいないからに他なりません。
ひとりひとりが持っているこころの器、そこに注がれていくものの中で、私たちが最も意識することが多く、重要なはたらきをするものは「言葉」といえるでしょう。
対人関係における会話、音声や文字による情報のみならず、一旦こころの器に入ったものを取り出す時にも、私たちは言葉によって再現する、という方法を取っています。例えば、「薔薇のトゲの痛み」も、思い出す時に指に痛みの感覚が芽生えるのではなく、「うっかり触ったら葉っぱで見えないところにトゲがあって指先を刺してしまった・・・」という言葉とともに、その時の記憶を引っ張り出しているわけです。
そう考えていくと、ささいな体験や記憶であっても、それを表現するための言葉をいかにたくさん持っているか、はその人のこころの器のありようを左右する大切な要素だとあらためて感じます。
人間として言葉を獲得していく過程で、どれだけ周囲から言葉を与えてもらえるか。
たくさんの暖かな言葉が器に注がれれば、それはさらに周囲の言葉を受け止められる感受性を育てていくことにつながる・・・私にそう気づかせてくれたエピソードをお話ししましょう。
それは大学時代。下宿近くの銭湯「西山湯」での出来事です。
ある日のこと。年齢構成も全く同じくらいの三世代家族(おばあさんとお母さん、そして2歳くらいの女の子)二組が、西山湯に来ていました。それぞれは浴場の端と端にいて、知り合いではなさそうでした。
そのうちの片方の女の子はどういうわけか、大きな声で泣き叫んでいて、いっこうにそれが収まる様子がありません。それに対して、もう片方の家族の女の子はニコニコして笑い声さえたてています。お風呂が楽しくてしかたがないといった感じです。
不思議に思って、しばらくそれとなく観察していると、その違いがわかってきました。泣いている女の子のお母さんとおばあさんは、ほとんどその子に話しかけないのです。時折、何か叱責する声は聞こえるものの、なだめようともせず、すがりつく女の子の手を邪険に振り払ったりして、見ているこちらが辛くなるほどでした。
一方、楽しそうな女の子には、おばあさんもお母さんも何かしきりに話しかけています。片方の女の子の泣き声にかき消されて何と言っているのかは聞き取れないのですが、ふたりからの話しかけに応じて、女の子は笑い声を立てているのでした。
もしかしたら、泣いている女の子はシャンプーが目に入ってしまったとか、たまたまそんな状況だったのかもしれません。でも私には、日光や水をたっぷり与えられてすくすくと育つ植物と、ほったらかしにされてしおれてしまう植物のような違いに感じられ、その時の光景は今でも鮮やかによみがえってきます。
先日、NHK教育テレビで放映された番組「短歌」で歌人の馬場あき子さんが、「短歌というのは、(31文字という)型を砥石として、言葉を磨いていくこと」と語っておられました。想像するに、ある一つの事を31文字に収めて言い表すには、最もふさわしい一語一語を見つけなければならず、そのふさわしい一語にたどり着くために膨大な言葉の数とその背景とを知っておく必要がある。そしてその過程で自ずと言い表そうとする事柄や感情について、時間をかけて静かに深く考えることになる、ということなのでしょう。
つらい経験や、自覚したくない暗い気持ちも、こころの器にはきっとたくさん入っているはず。でも、そうした混沌にも、「砥石で磨いた」言葉を与え直すことで、昇華され、それが再びこころの器に注がれて、人は成長を遂げてゆくのかもしれません。そう考えると、自分のこころの器の中を、そっと見つめることもできそうな気がしてきました。
人から受け取る言葉、そして私が差し出す言葉。それを大切にして、日々、沢山のもので否応なく一杯になる器の中身を、少しずつ豊かに味わい深いものにしていきたいと思います。